「原子力の安全性を問う」第1回シンポジウム 
 質疑応答概要(2011年10月8日(土)開催)  

コーディネータ: 松井 一秋((財)エネルギー総合工学研究所 理事)
パネリスト  : 佐藤 一男(公益財団法人原子力安全研究協会研究参与)
  木下 冨雄(京都大学名誉教授)
  向殿 政男(明治大学 理工学部 教授)

質疑応答概要

Q1.(松井)

向殿先生からはpracticalな観点から原子力に対してやや辛辣なコメントがあったと認識しております。そこで木下先生に向殿先生の意見に対するコメントを伺いたいと思います。

A1.(木下)

全体的に認識は共通であると思います。ただ、向殿先生のプレゼンの中に「安全×信頼=安心」という式がありましたが、安全の中にはすでに信頼が含まれておりますので、信頼が二重になっているという印象です。そこだけが違いのように感じました。

A1-2(向殿)

確かに安全には信頼性というものが含まれておりますが、その信頼性の指標を与えているのは専門家であって民衆ではありません。民衆にとっては、その信頼性を判断している人のことを信用できれば安心できるということになると思います。

A1-3(木下)

リスク学では、先ほど私が述べたように、測定されたリスクを市民が受容した場合に安全といいます(Lowrance)。市民の受容は、先生が言われるように信頼できる専門家が安全を担保することによって生じるときもありますが、それ以外にも、市民の世論調査によって担保されたり、市民自身が自然災害のリスクを勘案して納得したりという場合も含まれます。したがって厳密にいえば異論があるのですが、細かい話しなので了解します。

Q2.(松井)

佐藤先生の意見もお聞きしたいのですが。

A2.(佐藤)

両者の議論に概ね賛同します。基本的な問題意識として、日本人はリスクという概念が好きではないということがあります。日本人には言霊という考え方があり、不都合な事実はなるべく忘れていたいという感覚があります。受験生に「すべる」と言わないようにするとか、結婚式で別れを想起する言葉を嫌うといったような感覚です。このようにリスクに言及したがらない日本人に、リスクという概念を定着させることは難しいことのように思います。

A2-1.(向殿)

日本人の心は理解いたしますが、少なくとも安全については、グローバルスタンダードに向けて定着を進めていくべきであると考えています。

A2-2.(木下)

リスクが外来の概念であり、日本人が好まないというのはその通りです。その理由として欧米では、冒険を好む時代精神やロンドンの大火災、それに確率論の発生など、リスク観の形成に繋がる出来事が、17世紀頃に集中したことを先ほど申し上げました。それに対して日本では、四面を海に囲まれ水と安全はタダという国柄。そこにあるリスクは天災が主たるものです。結果として日本人は、リスクに対して受動的、消極的、自分は温和しくしているのに天から降ってくる厄介なものという、欧米とは正反対のリスク観が出来上がりました。しかしいくら嫌いであっても、リスク的発想は科学的概念の基本ですから、かならず身につけねばならない知識だと思います。

Q3.(松井)

リスクの定義について教えて頂きたい。リスクは「確率×影響」ですが、影響を放射線による死者に限定した場合、今回の福島事故の影響は0と見なすこともできます。どのように評価していくべきなのでしょうか。

A3.(木下)

それはリスクのエンドポイントに何を取るかという問題です。たとえばエンドポイントに死亡を取った場合には、言われるように今のところはリスクが0です。しかしエンドポイントに発がんを取った場合には、リスクの値は将来的に異なるでしょう。また、放射線による環境汚染をエンドポイントに取れば値は異なります。さらに心理的ダメージや風評被害まで入れると、リスクの値はとても大きくなるでしょう。この「エンドポイント」を何に取るかは任意ですが、それによってリスクの値は大きく変動するとお考えください。

A3-1.(向殿)

危害の中に何を含めるかは大きな問題です。財産まで含めると相当に大きな危害になると思われます。

Q4.(松井)

佐藤先生は、原子力安全を確保するにあたっては現場の意識が最も重要であると指摘されました。一方、現状においては、データ改ざん事件などを踏まえ、現場に対する書類整備の負担が非常に大きくなっており、これにより現場が疲弊してしまうということを心配しております。この状況について先生の意見を伺いたいと思います。

A4.(佐藤)

書類を大量に作成することは合理的ではないと思っています)。JRR1が動き出した当時、炉規法は存在せず特段の許認可手続きは行われませんでしたが、関係者が「これで失敗したら大変なことになる」という強い自覚をもって取り組んでいましたので、内容的にはむしろ規制ができてからよりも優れているくらいでした。
学校教育についても同様で、今は先生が書類作りにエネルギーをとられてしまい、本来の教育にかける時間がとれなくなってしまっています。これは本当に困ったことであると思っております。

Q5.(フロア)

このような企画は大変大事であると思っております。
現在原子力の安全は世界の関心事項となっております。安全の哲学も含め、現在の国際基準をベースに議論をしないといけないと思います。IAEAの安全基準は2006年にまとめられておりますので、それと比べて日本はどうなっているか、また、震災を踏まえてIAEAの基準をどう変えていくかという議論が重要であると思っています。なお、IAEAの安全基準については、EUは2009年、アメリカは2010年に受入を決めております。旧ソ連圏も受け入れざるを得ない状況です。残りは日本だけです。今後も「グローバルスタンダード」の観点から議論をしてほしいと思います。
また、IAEAにおいては、放射先リスクから公衆を守ることが目標となっておりますが、確率的にしか決められないところが残り、そこに直感、主観を伴うので判断が難しくなっております。なお、国際的には「安心」という概念はありません。

A5.(松井)

単なる内向きの議論に終わらないように留意していきたいと思います。

A5-1.(佐藤)

ある国の原子力事故の影響は全ての国に影響を与えますので、安全基準は国際的に合意をされるべきものです。従って国際的な動向に乗り遅れてはいけないと思います。ただし、IAEAの安全基準は基本的な概念しか定めておらず、具体的な部分は国に依存するものと認識しております。

A5-2.(木下)

「安心」という概念がわが国独特のものであり、国際的に通じないことは、私が先ほど指摘したとおりです。しかしながら、その言葉を非科学的と捨ててしまうのにも少し抵抗があります。なぜなら、たとえスローガン的に使われたとはいえ、科学技術会議がこの言葉を公式に用いたという重みがあること、それに安心という言葉は、その情緒性が故に日本人にとって好ましい表現であるからです。だとすれば、グローバル・スタンダードとしては使えないとしても、国内限定版という使い方があるかも知れません。その両者をどう調和させるかは今後の問題でしょう。
なお、国際的という言葉が出てきましたので、それに関して少し補足意見を述べさせていただきます。東日本大震災の後、世界の国々から国際援助が行われ、私たちはその温かい思いやりに心に打たれました。しかしながらその別な背景として、冷たい国際政治の力学が存在していることを忘れないで欲しいということです。つまり世界の国々は、今回の原発災害を、①核戦争や核テロのデータ蒐集の機会、②自衛隊の動員力や最新の除染装置の確認、③日本政府や市民の危機管理能力など、国家のセキュリティに係わるデータが得られるチャンスとして捉えているからです。その意味で私たちは、地震や原発問題だけではなく、国家セキュリティの観点からの議論も重要なのではないでしょうか。
ただ現在の世論は、その議論ができる雰囲気になっていません。政府も国民も眼前の災害に目を奪われて、眦が決した心理状態になるからです。したがって、今の時点で国家百年の計を語るのは時期尚早であり、ある程度クールダウンしてから議論すればいいと思います。

A5-3.(向殿)

安全については、世界で通用する基準を、科学的・合理的に決めていけばいいと思います。一方、安心については、日本固有の問題ですので、国内で議論していけばよいのではと思います。安全については、確率論と決定論、構造と運用などをどのような哲学で決めていくかが今後の課題と思っております。

Q6.(フロア)

リスクが嫌いな日本人に対して、情報公開を進めることは矛盾しているのではないですか。

A6.(向殿)

リスクの概念は、家電の世界では定着しつつあり、この文化を広げていくしかないと思います。パニックを起こさないようにという配慮は理解はしますが、「メルトダウン」というような情報についても、国民を信用して公開していくべきであると考えています。

A6-2.(佐藤)

生活が高度化すればリスクも増えていきます。リスクに囲まれて生きているということを国民が理解できるよう、意識改革をしていかないといけないと思います。